あたか農園だより
No.142
2013.7.27
 赤しそ終了
 今年の赤しそが終了しました。
例年の通り、今年も最盛期のように育った赤しその状態のままトラクタにつけたモアという草刈り作業機で粉砕すると畑は写真のような姿に一変です。
 先月の便りで触れたように、梅の豊作で前半の販売は好調だったのですが、後半に入ったとたん失速。墜落とはいきませんでしたが、ヨタヨタの低空飛行で、今月19日の販売を持って市場出荷が終わりました。
 それでも、トータルでみると、過去最悪の昨年よりはまずまずの結果でほっと一息ついたというのが正直なところです。
 でも、今年のような梅の豊作でも、梅も赤しそもその割に売れないというのは、世の中の食生活が変化してきているという実態を如実に表しているのでしょう。長期的に経営から見て赤しそという作目のあり方がどうあるべきか、思案のしどころです。
 一票の格差
 赤シソに限らず、野菜類が端境期に入るこの時期、農家が総出で農道の整備や周辺の雑草刈り等をする「役目」という作業があり、今年も今朝行われました。
 時には、風水害で土砂が流れたり、倒木などの復旧などもあり、年数回行うこの作業は農家の高齢化が進み、大変な負担になっていますが、地元の人たちの協力があって地域の自然環境がかろうじて維持されているともいえます。

 よくマスコミなどで、都会と地方の一票の重みに格差が開き過ぎて問題だという報道を耳にします。その度にちょっと違和感を覚えます。
 素朴な疑問。一票に格差があってはなぜいけないのでしょうか?
選挙権は基本的な人権だから平等でなければいけない?
 だけど思うのです。この役目のように、特に過疎の地域は住民一人が守るべき面積が広い。病院も学校も文化も遠い。交通も不便。都会では車を持つ必要すらない、待たずして移動でき、一流の文化に触れ、様々なサービスを享受できる。
 だから、一票の重みが軽いと分かっていても人々は都会へ流れるのではないでしょうか?  この夏、山間部の雨不足で東京は取水制限になろうかと聞きます。電力もしかり、都会に水がめも発電所もできるならいいのですが、地方が無くなっていいはずはありません。
 江戸時代のように居住地を厳しく制限されているのなら、基本的人権も分かります。
 いくら格差があってもいいとは言いませんが、なぜ単純に一票の重みの平等だけを声高に報道するのでしょう?
 なぜ少しは前述したような視点も加味した論議にならないのかと思うのは田舎者のヒガミでしょうか?
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